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私がFP(ファイナンシャルプランナー)になった理由

{123}最終章 おひとりさま(2-6.父 逝く)

 父の容体が安定したため、救急救命センターから一般病棟へ移って、

その後施設で介護を受けるための気管切開をすることになった。

 また、一般病棟では個室代が高く、いつまで入院するかわからない状況に私は悩んだ。
 無理を言って、ナースセンターの隣にしばらくベットを置いてもらうことができた。
 そして、病院のソーシャルワーカーに今後施設で介護を受けるにあたって質問と相談をした。

 帰り際、父に向かって
「お父さん。

私覚悟したからね。

これからも二人で頑張ろう!

と約束したのだった。

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その夜11時前に病院から電話があり
『父の呼吸が止まった』と言われた。

15分後病院に着いたがすでに父は亡くなっていた。

 

本当に最期までマイペースな父。

 

一方の私は
(お父さん、あんまりやわ。
 約束したやん
 ほんまに私の覚悟は何んやったん)と
突然であり、すぐに現実を受け入れられない。

同時に父のかつて言ったことを思い出す。
『人間一度は死ななあかんのや』

 

病院からの電話を受け、すぐに連絡していた叔父が来て【死亡宣告】がされた。

父の遺体を安置するために、自宅近くの葬儀社に連絡。

真夜中の病院裏口から出て行く私たちを一人看護師が見送ってくれた。

葬儀社の人とは朝になってから改めて話すことになった。

そして叔父と私は一旦帰宅したのだった。

{122}最終章 おひとりさま(2-5.父 逝く)

 決まっている面会時間にしか会えないうえ、家に居ても落ち着かない。
 パート先からの方がすぐに病院へ行けることもあって、出勤して毎日退勤後に面会時間の6時から8時に父を見舞った。

 看護師からウェットティッシュを渡され『顔や手を拭いてあげてください』と言われた。
 父の手は温かく、徐々にではあるが顔の腫れも引いていて

(まだ、生きているんだ)と実感する日々だった。

 母方の叔父夫婦も見舞いに来てくれた。
 義理の叔母が『お義兄さん、早う良うなって』と話しかけ励ましてくれた。

 私は積極的な措置を望んでいない自分に自問自答した。

 同じように入院している患者の家族は皆一様に『良くなって』と言い一生懸命に願っている。

 私は癌で入院していた時、『頑張って』と言う言葉が正直辛かった。

 だから、父には敢えて言わなかった

 また、(怪我をする度に完治を願い。叶わないとわかっては落胆し、体の不自由さに苛立っていた父を見てきた私は、これ以上は父にとって酷でしかない)と思っていた。

 本当にそうなのか?

 今後の自分へ負担がかからない(父の死)可能性を選んだのではないと言えるか?

 面会中、ある男性看護師に延命措置を希望しなかったことを話した。
『私の選択は少数派であるが、その判断は支持できる』と言ってくれたことが

唯一の慰めとなった。

{121}最終章 おひとりさま(2-4.父 逝く)

 翌日も叔父は病院に来てくれた。

 救命救急センターの医師から
『変わらず予断を許さない状態だが、安定している』と説明を受けた後、
ようやく父への面会ができたのだった

 ベットで口を大きく開けて眠る父の姿は頭に包帯、顔は打撲による内出血のため青く腫れ上がっていた。特に左半分が酷かった
また、呼吸を助けるためのチューブの他にも幾重にも機器に繋がれいた。
 
 その日は入院手続きもあり、紙おむつなど必要なものを持って私だけ夕方もう一度見舞った。
 父の好きな演歌を録音したウォークマンを聞かせながら、
「お父さん、痛かったね。
もう頑張らなくてもいいからね。
私なら大丈夫だから心配しないでね」と語りつづけた。

すると、父の目から涙が一滴流れた。

(お父さんには聞こえているんだ)と思った。
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 父は峠を越えた!

 CT画像でも黒い出血部分が小さく薄くなっていた。

 凄い生命力である!

 だが、意識はこのまま戻らず寝たきりになることは間違いなく、

私は更なる決断を迫られた。

 医師からか『延命措置を希望するか』と問われたのだった。

 私は
『父は一度眠ると起こされるのを嫌がります。だから起こさないでください』
即答した。


 私にもう迷いはなかった。

{120}最終章 おひとりさま(2-3.父 逝く)

 昼休憩の時、携帯電話に見知らぬ人からの2件の着信履歴。
 メッセージがあったので聞くと民生委員からで
お父さんが階段から落ちて救急車で病院に運ばれました
電話に出られないので弟さんへも連絡しました。すぐに病院に向かうと言われました』

 頭の中が真っ白になった。

 何とか平静を取り戻し、折り返し民生委員に電話し詳細を聞きお礼を言った。
叔父(父の弟)にも電話し、『私もすぐに病院に向かう』と伝えた。

 父の運ばれた病院は偶然にもパート先から目と鼻の先の距離だった。

 『治療中なのでここでお待ちください』と言われた部屋で叔父の到着を待った。

 こういう場合、一人で黙って待つのではなく叔父と話していると少し不安が和らいだ。

 『出血が止まらない。何か薬を飲んでいないか?』と看護師から聞かれた。

 『不整脈血栓予防のため薬を飲んでいるが、薬品名はわかりません。
かかりつけは○○病院ですが連絡先もすぐにはわかりません』と答えた。

 それからは何もなくただただ時間だけが過ぎていった。

 ようやく担当医から知らされた内容は余りにも重過ぎて、かつ即断を迫られるものだった。

 私たちにCT画像を示しながら説明する医師の言葉は
『脳圧を下げるために開頭手術を希望するかどうか。
開頭手術には当然危険を伴う。
手術をしたからといって今よりも状態が良くなるかはわからない』
更に、
『このままだと、この一日二日が峠である』だった。

 脳の中心部が黒く写っているCT画像を見ながら私は絶望感とともに
(お父さんは最後まで私に判断を丸投げするんだ)と
心底恨めしかった。

叔父は『あんたが決めたらいい!』と言った。

意を決した瞬間、
『手術は希望しません!』
『父の生命力に任せます!』と私は答えていた。

その日は父に会えぬまま、叔父の車で送られ家に着いた。
途中、叔父と食事をした。
昼食を食べていないにもかかわらずほとんど何も喉を通らなかった。

 帰り際に看護師から渡された父の荷物を開けた途端、

異臭とともに改めて悲しみが襲ってきた

それは、
昼食に買った唐揚げと惣菜。
血だらけの衣服に下着。
下着には脱糞していた。
(買い物からの帰りで、トイレを急いでの事故だったのか)と
相変わらずせっかちな父を想うと涙が溢れてきた。

 こうして私にとって最も長い半日が終わったのだった。

 

{119}最終章 おひとりさま(2-2.父 逝く)

 父は週1回の家事援助に加えて、週二回デイサービスを利用するようになった。
 行き帰りは車での送迎、体操や器具を使って体を動かすことができ、昼食にお弁当も頼めた。

 他に入浴サービスもあって、 
私は
『個浴で、男性スタッフに背中を流してもらえて頭も洗ってもらえるよ。
家で風呂沸かさんでええし、帰ったらご飯食べてすぐ寝れてええんとちがう』
と言って何度も利用を勧めたていた。

しかし、父は
『あれは風呂の無い人が入るんや』と言って頑なに嫌がった。

 自転車が乗れなくなったことで行動範囲が狭くなり気軽に外出できる機会が減った父にとってデイサービスのある日は楽しみであり、心待ちにしていたのだった。

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 年に数回は必ず二人で墓参りに出かけていた。
 杖無しでは歩行が難しくなった父との外出は時間に余裕を持って行動しなければならず、また最短ルートの行動は昼食の場所も毎回同じで窮屈であった。
 それでも、自然の中、芝地にある墓に出かけることは良い気分展開であり楽しかった。
 
 実家へ送った時、父の階段を上る仕草に驚愕した

 脚に力が入らないのか手摺に掴まった腕の力を支えに上がっていく。

団地の三階までいつもこのようにして上っていたのだと・・・)

更に、買い物帰りには荷物がある。
 常々、『エレベーターの無い団地だから階段が上がれなくなったら住めなくなる』と父に言っていたが、(いよいよ時間が無くなってきた)と私は思ったのだった。

 そして、【二度あることは三度ある】が起こった。

{118}最終章 おひとりさま(2-1.父 逝く)

 大工であった父は過去2回仕事中に大怪我をしていた。

 一度目は柱と歩板の間に体が挟まって入院。
その後リハビリをしたが頸椎の損傷が完治せずに本人にしか感じることができない程度の後遺症が残った。

 二度目は二階の足場から転落。
運よく資材の上に落ちたことがクッションとなったが左太ももの大部分の筋肉を断裂した。
 そういう理由で、血行改善とリハビリを兼ねて整形外科と接骨院への通院が父の日課であった。
 免許の無い父はどこへ行くにもアシスト自転車だったので、左脚を怪我してからも無理して乗っていた。常々、不安を感じていた私は前輪が2輪のアシスト三輪車が脚に負担が少なく安定して乗ることができればと考え、父に勧めたのだった。
但し、『この三輪車に乗れなければ今後一切、自転車に乗ることを止める』という約束をしたうえでのことだった。

 購入にて間もないある日のこと、一緒に買い物に出かけた私の目の前で父が三輪車ごと転倒してしまった。
(絶対に転倒することが無い)と思っていた私はショックと三輪車が重くて父を助け出せないことで途方に暮れていた。
 そこへ天の助けとしか言いようがないタイミングで通りかかった二人の消防隊員が父を助け出してくれたのだった。

また、日曜日であるにもかかわらず転倒した場所が、休日診療をしている病院の真正面であったことも不幸中の幸いと言えた。

 これを境に、父は自転車無しの生活をせざるを得なくなった。

{117}最終章 おひとりさま(1-2.再び)

 冷静になって考えると、安定した今の仕事を失うことはリスクが大き過ぎたし、これからも仕事量が増えていくことが予測できる中、私が抜けることでチームの仲間に負担を強いることになる。

 こうして私が悶々とするうちに日々は過ぎていった。

 予測通り業務が多忙となり、私の日常は様変わりした。

 平日は家に寝に帰って、すぐに仕事へ行き、休日は何もする気力がなくただただ眠り続けた。その上、右肩が痛みだして、また五十肩になった。

 勤労感謝の日、布団の中でぐずぐずしていた時、頭の中でアラームが鳴った

(危険、危険!あの頃と同じ)

(このままではまた病気になる)
(今、行動しなければきっと後悔する)
(それだけは絶対に嫌だ!)

 もう、迷いは無くなっていた。

 私の退職は、私の年齢からいってもまずあり得ないと考えていた同僚たちに驚きを与えたようだった。

 また、猫の手も借りたいところ何も言わず私を送り出してくれた彼らに

私は心から感謝せずにはいられなかった。

{116}最終章 おひとりさま(1-1.再び)

 術後五年が経った。

 私は80%の方に入った。


 この頃から、私は生かされていることだけでは満足できなくなっていた。


 それは、(自分の本当にしたいことをすることであり、自分の人生を生きたい)

という思いが強くなっていたことでもあった。

 私は生活をしていく上で、否応なくお金との関わりについて、子供の頃からいろいろ経験してきた。

 そして、お金をどのように活かして遣うかは、人それぞれの価値観で違っていて当たり前ということも母を通して実感していた。
 そのことをファイナンシャルプランナーの勉強を通して、再確認できたと言っても過言ではなかった。

 私の中で一度は諦めたファイナンシャルプランナーになる夢が甦ってきていた。

 一年ほど前から、新システムの導入にあたり仕事量が徐々に増えていた。
 父に『二年』と言って一人暮らしを始めたが、(戻らずにいて良かった)と思っていた。
 なぜなら、残業も多く帰宅が十一時近くになることも度々であったからだった。
 職場では皆が疲弊し、気持にも余裕が無くなっていたが、私は自分の役割を必死で果たしていた。

 いや果たしていると思っていた。

 しかし、それは上司のある一言で、私の独りよがりであったことを知らしめることとなった。
(パートにでもできることを自分たちにさせてると思っているんだ)
 世の中のパートで働く人に対して失礼であることは別として、私はこの言葉の意味を私の仕事が誰にでも容易にできるだけでなく、私の仕事内容が支払われている給料に見合っていないと受け取った。

(悔しかった)

 私は悔しさの余り、自席に戻って涙に堪えるため俯いていたが、耐えきれず洗面所へ走ったのだった。

 そこで鏡に映る自分の泣き顔に向かって、

「私にしかできないことをする。ファイナンシャルプランナーになる」

と瞬間的に宣言していた。

{115}コーヒーブレイク(第9章 自分の人生)

 術後一年が過ぎた頃から、一人暮らしが本当に楽しくなった。


 手術前から続けていたボイストレーニングに加えて、ホットヨガを再び始めることで体力に自信が持てるようになっていた。


 また、少しでも元気に見えるようにパーソナルカラーも学んだ。


 その年の十月にパーソナルカラーの先生が

『ファッションショーをするのでモデルをしないか』と言われた時には、

二つ返事で出演を決めた。

そして、ファッションショーにはお世話になった義理の叔母、友達、鍼灸院の先生を招待した。

 黒のドレスを着て、ランウェイを歩く私の元気な姿を見てもらうことが、

私からの皆へのせめてもの感謝の気持だった。

 

 韓国ドラマにも夢中になった。

おかげで韓国好きの同僚と翌年の二月に韓国へ旅行することができた。

それは、生まれて初めての海外旅行であり、パスポートを作るのも当然に初めてだった。

 勤続五年の休暇で、ツアーではあったが北海道への一人旅もした。


 仕事の続かなかった私が一人暮らしの生活を支えるためとはいえ、仕事にも充実感を持って取り組むことができるようになっていた。


 二十四時間を自分のために使うことが、こんなにも私に色々な変化をもたらしてくれるとは想像以上だった。

 私は幸せを実感した。


 生かされていることに心から感謝した。

 

{114}第9章 自分の人生(3-7.気がかり)

 墓移転は順調に進むと思っていたが、意外なことに田舎の伯父が難色を示した。

 

 檀家で管理している墓地からの移転に(周りからどう思われるか)と言うことが気がかりだったのだろう。

『今まで、伯父さんだけでなく伯母さんにもお世話になっておきながら勝手なお願いをして本当に申し訳ありません』

『ですが、これから先の代替わりした時を考えて、引き続き従兄夫婦にお世話になることは心苦しくてできません』と私の考えを伝えたが、

伯父は最後まで首を縦に振らなかった。

それでも最後は、【改葬許可証】に現在の当番の墓地管理者である伯父は署名・捺印してくれたのだった。

 

 墓じまいの日は父との待ち合わせが上手くいかず大変だった。

 父を探すため予定の列車に乗り遅れた私を待たずに自分だけ先に着いていた父に文句を言われ、その日お世話になる販売会社の人を長時間待たせたことを伯父からも注意されて散々な思いで過ごした。

 伯父の家に出向いて今までのお礼をした後、田舎で世話になっている寺の住職に読経をしてもらい、弟の骨の欠片を拾い、処分する墓石を業者に持ち帰ってもらった。

 販売会社の担当者の好意で途中まで送ってもらうことができ帰途に就いたのだった。

 今でも、この出来事について担当者と話すことがあって、良い笑い話になっている。

 

私の拘りの墓石の表は【ありがとう】の文字と筆記体の苗字とユリの花。

裏は命日と戒名とクローバー。

フォルムは以後同じフォルムの墓石が増えていくというものであった。

 

 開眼法要の日、父と私は手ぶらで送迎バスで行き、霊園で僧侶の依頼、花、供物、祭壇などを準備してもらっていた。

つつがなく終えることができて販売会社の担当者には感謝しかない。

 心残りが一つ無くなったこともあり、穏やかな日となった。

{113}第9章 自分の人生(3-6.気がかり)

 後悔のないよう気になる事は解決しておきたいと思ったことにお墓があった。

 田舎にある弟の墓参りには父が毎年お盆の帰省を兼ねて行っていた。

 片道3時間かかる上に駅からタクシーに乗り墓地で待機してもらって、再びタクシーに乗って伯父の家へ行く。

 墓参りはせわしいとしか言いようがなかった。

 父も脚が不自由になってからは年々移動が大変になっていた。

 兼ねてから(近くで永代供養をしてくれる墓地は無いか)とネットで調べていた私は、興味を持った霊園に『ゴールデンウイークに見学にいかないか』と思い切って父を誘ってみたのだった。

 そして以外なことに、二つ返事で父はOKした。

 神戸の山間にある霊園へは自宅からバスで最寄り駅へ、電車の乗換なし、到着駅から送迎バスが出ていた。長距離を歩く必要が無いうえ、アクセスが良く1時間足らずで行くことができた。

 自然の中、鳥の鳴き声、木々のざわめき、虫や蝶が飛んでいる。

また、園内には微かに流れる音楽があり私はすっかり気に入ってしまった。

 父も同じだったようで、墓地だけでなく墓石の種類などその場で決めた。

 他に田舎の墓を移転するための手続きについても説明を受けた。

ただ、私は初めから合同墓を考えていたが、父がどうしても個別の墓を希望したことで予算がかなりオーバーした。

 新墓に彫ってもらう言葉だけでなく模様、墓のフォルムまで私は拘った。

そのため、何度か墓地販売会社の事務所まで出向き要望を言った。

『こんなに、熱心なお客さんは少ない』と

今後ずっとお世話になる担当者に言われたのだった。

{112}第9章 自分の人生(3-5.気がかり)

 私は福祉の担当者に現在の私の状況

(一年前に癌になって五年間は再発の不安があること)

(父が無年金で私が生活費を管理サポートしていること)を説明した。

 さらに、これまで母の浪費癖でどれだけ大変だったか。

離婚してからも、出来る限り援助してきたこと。

別居して二十年以上経っていること。

最後は感極まって「助けたくても無理なんです」と泣きながら訴えたのだった。

 

 話を聞き終わった担当者から

『今までのことがわかって、お母さんの行動にも納得できました』と言って、

これまでサポートをして困った経緯を教えてくれた。

更に

『自分が知っている中でも本当に気の毒だと思う』と言って、扶養できないことを了承してくれたのだった。

 その日の夜、義理の叔母に母が生活保護の申請をしていて、扶養の意思確認について役所に説明に行ったことを伝えた。

そして、『叔父だけでなく叔母二人にも扶養の意思確認について役所から連絡があると思うので予め知っておいて欲しい』

『ご迷惑をお掛けして申し訳ありません』と言った。

 

 後日、叔母から電話があり、【お知らせ】が届いたので叔父と二人で役所に出向いて話しをして来たと聞かされた。

 叔母は『福祉の担当の人、ようわかってくれたわ』

『これからはこっち(叔父夫婦)に連絡してもらうようにしたから。あんた、もう何も心配せんでいいからね・・・』

 それは、母に何かあれば叔母からの電話で様子を知ることができるだけでなく、役所から直接知らされるより私の精神的負担が減ることでもあった。

 この叔母の素早い行動力と助けには、何度も驚くとともに本当にありがたい思いだった。

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 父にはこの事態を話すことはなかった。

 なぜなら、あれだけ電話番号を変えることに固辞していた父が『番号を変える』と言った経緯があったからだ。

 おそらく、私が出て行き一人になり母からの頻繁にある無心の電話に、

さすがに耐えられなくなったということだろう。

{111}第9章 自分の人生(3-4.気がかり)

 ある日、役所から【お知らせ】が届いた。

 内容は母が生活保護の申請をしていて扶養義務者に今後の扶養についての意思確認を求めるものだった。

 母に関することは私にとっていつも驚きであり狼狽させられた。

 文書では詳細がわからない。

 私の都合も知ってもらいたいことから役所に出向いて現状を教えてもらうことにした。

 『同じ団地に住む人が母を連れて生活保護の申請に来た』と言われた。
また、『生活保護より認知症の方が問題である』とも言われた

以前、義理の叔母を通じて母が良く遊びに行っている母の従姉妹から

『フミエちゃんの様子がおかしい。認知症かもしれない』と訊かされていた。

 

 私は叔母に

『母を説得して病院で診察してもらえないか』とお願いしていたが

 

 叔母が言うには

『母が嫌だと言って言うことを聞かない。

年金を一度に使わないように通帳を預かって欲しいと自分から頼んでおきながら、

直ぐに返してくれと言われたうえ逆ギレされた。

もう、ほっとくしかない』

 

お手上げ状態のまま月日が過ぎていたのだった。 

{110}第9章 自分の人生(3-3.気がかり)

 父は私の渡す生活費の範囲内で日々の食事や日常品の買い物、病院代、交通費、小遣いを遣り繰りして(させて)いた。

 洗濯は大好き。綺麗好きで食器洗いやシンク周りは問題なかった。
 部屋とトイレの掃除は私が週1回休みの日にしていた。
 ずっと銭湯を利用していたがつぎつぎと閉店となり、とうとう内風呂を使うことになった。
 機械音痴の父にお湯張りを覚えさせた(?)はいいが、掃除は私の役割で私の負担が増えた。

 何かの折に、義理の叔母が
『いっちゃん、いくら大丈夫と言ってもお父さん家と自分家の両方は大変やて。無理したらあかんよ。
 お父さん、脚が不自由やから介護保険で生活支援してもらえるんとちゃうん。
 身内やとついつい遠慮がなくなるけど、他人に入ってもらうことで上手くいくこともあるんやで』

 叔母のアドバイスは何でも自分でしようとする私の意識を変えることになった。

 多くの人に関わってもらうことで生活面が助かるだけでなく、父の異変に気付いてもらえる機会が増えると考えた。

 

 介護保険制度の認定申請をした結果【要支援2】となり、週1回の家事援助、トイレと風呂場の手摺、すのこの設置が決まった。

 (ヘルパーには良くしてもらい問題なく過ごせている)と思っていた私の期待も虚しく、父はヘルパーの訪問日に必ずと言っていいほど居留守をしだした。

 父が言うには
『寝ていて気付かんかった』

『毎週〇曜日の〇時に来てもらうのわかってるんやから、起きて待っててくれなあかんやん』

『そんなん知らん。眠いんやからしょうがない!』

 

 後日、訪問記録を読むと、父がなかなかインターフォンに出ないことを心配するとともに、その日の様子が書かれていて申し訳なかった。
 こうして、掃除はしてもらえても滞在時間が足りず、中途半端なため私がすることが多かった。

 実は、最初に担当してもらったヘルパーが辞めて、替わった次のヘルパーが気に入らなかったことがわかった。

 ケアマネージャーと相談して事業所を変えてもらうことにしたのだった。

 

 

{109}第9章 自分の人生(3-2.気がかり)

 電話嫌いの父だが、私への電話は頻繁にあった。

『いっちゃん、洗濯機が動かん!見に来てくれ!』

『どんな様子なん』と私。

『水は出るけど、回らん』

『お父さん、蓋閉めてる?全自動は蓋開けてたら動かんよ』

『動いた。ありがと』

毎度、自分の要件を言って終わり。

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 北海道への旅行中のこと、携帯電話に父からの数え切れない着信履歴

『お父さん、何? いま、私、北海道におるんやけど・・・』

『あんな、今日、掃除の時に(団地の自治会の)会長しろって言われたんや』

『私、住んでないから、出来へんって言った?』

『わし言うたけど、おばはんらがまだやってないのがうちだけ言うて聞かんのや』

『わかった。帰ってからね』

『わし、おばはんらに囲まれてあれこれ勝手に言われて、ほんまに酷い目にあったんやで』

『だから、帰ってからね』

『おまえ、どこに居るんや』

『北海道って言ったやん』

『北海道?』

『旅行中やから、帰ってからね』

『ほんなら頼むわ』

 厄介ごとがある度に私に解決してもらい、自分は一刻でも早く安心したいという繰り返しだった。

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 結局、団地の自治会の会長をすることになった。

 初めての二人体制で、昼間の連絡等はもう一人にお願いして、私は月1回の班長会と集会の議長、対外的な手続き等を担うことになった。

 父は
『ほんまに、わしらが知らんうちに自分ら(同じ班の人)で順番変えて、うちが会長させられた』とずっと文句を言った。

 自分は何一つ自治会活動に関わっていないにもかかわらず・・・。

 一年間の会長仕事は、ついでに実家の用事が出来て父の様子を知るきっかけにした。

 そして何より団地の人たちと友好関係を築いていた方が一人暮らしの父のことを思うと後々安心だった。