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私がFP(ファイナンシャルプランナー)になった理由

{138}エピローグ

 それは、あるセミナーのワークショップで突然に起こった。

 今日はどんな新しい知識が得られるのかとワクワクしてその場に臨んだ私は、講師の話が進むうちに自分のカウンセリング体験を思い出していた。

 (ファイナンシャルプランナーになりたい)と思ったきっかけが、私の生い立ちと切っても切れないのだから当然と言えば当然であった。

 【NLP心理学】はカルチャーセンターですでに受講経験があり、そこでは自分の考え方の癖や他者とのコミュニケーションについて学んでいた。だから復習といった感じで講師の話を聴いていたのだった。

 記憶が薄れて曖昧になった知識を繰り返して学ぶことの重要性を改めて考えていた時、ワークが始まった。

 自分が仕事をする上での価値観を知ることが目的だったと思う。


 私が課題に記入した内容をもとに講師からの質問が始まった。
 講師のテンポに合わせて、私は瞬間的に思いつくまま答えていくが何度も繰り返される同じパターンの質問に対して、次第に追い詰められているという思いが強くなっていった。

 気が付くと私は嗚咽とともに涙を流していた
 それでも質問は続く。

 私は必死で答えた。

『私に関わったすべての人に感謝します!』
それは、無意識のうちに出た言葉だった。


 講師からまた同じ質問があった。

『〇〇できたなら、あなたはどうしますか?』
『満足して死ねます!』
喘ぎながら絞り出した言葉だった。

その答えを最後に私のワークは終わった・・・。

 

 ファイナンシャルプランナーという役割や使命について深く考えさせてもらえただけでなく、私自身、予想だにしていなかった意外な結果をもたらしてくれたのだった。

 Restart!

 さあ、新たなステージの始まりだ。

------------(完)-----------

{137}最終章 おひとりさま(4-5.母 逝く)

 後見人の行政書士が『デイサービスから預かって来た』と言って、アンパンマン人形とスタッフの寄せ書き2枚を渡してくれた。


 その色紙を見た瞬間、堰を切ったように涙が溢れ止まらなくなった。


 そこには母がデイサービスで過ごした日々を写した切り抜きが何枚も貼ってあり、裏面は温かい励ましのメッセージで埋め尽くされていた。

 

 中央には前歯の無い口を大きく開けてニッコリ笑う母のアップ。

 私は(母は幸せだったんだ。皆からこんなにも良くしてもらっていたんだ)と

心からの感謝とともに救われた気がしたのだった。

 

 色紙はデイサービスだけでなく、特養のスタッフからも贈られていた。
 私はアンパンマン人形と二枚の色紙を棺に納め、義理の叔母が持参してくれたカサブランカの花で母の顔を飾った。

 その華やかさといったら・・・。

 派手好きだった母もきっと満足したと思う。


 行政書士にこれまでの感謝の挨拶をして別れた後、私達は火葬場へ向かった。

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 宗派の違う寺の待合所では都合が悪かろうという理由のため、火葬場では読経をお願いしていた僧侶がすでに待っていた。

 私が持参した花束が置かれた棺を前に読経が行われ、その後火葬された。

 昼食から火葬場に戻って骨拾いを終え、叔父夫婦に送ってもらい別れた。

 

 仏壇に骨壺を置き(ああ、終わったんだ)と思った。

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 翌日は読経のお礼と初七日と戒名のお願いのため寺に行った。

 戒名を考えてもらうために故人がどんな人だったかを話さなければならない。

 私は紫色が好きだった母の戒名にできれば紫の文字を入れて欲しいとだけ言うつもりだった。

 だが僧侶との母のエピソードトークに花が咲いて一時間近く居座ってしまった。

 それは自分でも不思議なぐらい母の長所を次から次へと語っていたからだった。

 

 そして、初七日の日に渡された戒名には紫の文字が入っていた。

 寺からの帰りに父の時に世話になった仏具店に立ち寄って、父と同じ仕様の位牌を注文し、また同様に四十九日の納骨のため霊園にも連絡した。

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 納骨を終え、弟・父・母が同じ墓に入ったことに

(母が弟と一緒でさぞかし喜んでいる)と思う反面、

(弟は父母に挟まれて大変だろうな)と妄想する私だった。

 

 大叔母から預かったお金をこれですべて使い切り

私は約束を果たしたのだった。

 

 

{136}最終章 おひとりさま(4-4.母 逝く)

 九月に入ったある日

 母が亡くなった

義理の叔母が知らせてくれた。

特養へ最後に(母に)会いにくるのなら、手配するので娘さんに聞いて欲しい』と

行政書士からの言づてもあった。

 

「いっちゃん、どないする?」

「私らが(特養へ)行ったら余計な手間をかけさせて申し訳ないから、火葬前に顔が見られたらそれでいい」

「わかった。そう言うてみるわ」

 

死とは突然であって、

こちらの都合はお構いなしであるとつくづく思う。

そう・・・

私は母と対峙する心の準備が未だにできていなかった。

 

 直ぐに義理の叔母から電話があった。
「火葬場近くにあるお寺の待合所を借りて30分ほどお別れする時間があるって」
「後で、場所と時間を知らせてくれるって」

「わかったわ。ありがとう」と言って電話を切った。

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 当日は私と叔父夫婦が母の従姉の家に集まり一緒に車で寺に向かった。

 寺の待合所では葬儀社の人が私達の到着を待っていた。


 私が「お骨を持ち帰りたい」と言うと
「喉ぼとけ用の骨壺の用意しかなく、別料金になる」との説明。
 その場で支払って骨壺をあらたに用意してもらったのだった。

 しばらくして、お棺が運ばれてきた。


 蓋を開けてもらい中を見ると、穏やかな顔で目を閉じ横たわる母がいた。

 最期まで愛用していた品々も一緒に納められ、その中にミッキーマウスのぬいぐるみがあった。
 (子供のようになった母がずっと抱きしめていたのだろうか)と想像しては

切なさでいっぱいになった。

{135}最終章 おひとりさま(4-3.母 逝く)

 特養(特別養護老人ホーム)に入所した母がコロナに感染したと義理の叔母から連絡があった。

 後見人である行政書士との連絡先が叔父であり、そこから私に伝えられることが本当に迷惑をかけて申し訳なく思う反面助かった。

 なぜなら、直接聞くより義理の叔母からの方が私は動揺や焦りを隠す必要もなく正直な思いを話し、相談したうで判断を下すことができた。

 行政書士の話は
『入院ができるまで特養で経過を見守る』
『今後、状況が変わり次第また連絡する』
ということだった。

 当時、(高齢者がコロナに感染したらほぼ助からない)と思っていた私はその時が近いと覚悟したのだった。

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 それからしばらくして、義理の叔母が

『母が入院できた』

『病院は県内だが遠方である』

と知らせてくれた。

 入院先がなく自宅療養者が多い時にもかかわらず、母が入院できたことが本当に有難かった。

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 母はしぶとかった。


 なんと、コロナから回復して特養に戻ったのだった。
 行政書士から『かなり弱っているから、この先そう長くはないだろう』と言われたと義理の叔母が教えてくれた。

 この知らせに私は言葉にならないほど複雑な心境だったことを覚えている。

 

{134}最終章 おひとりさま(4-2.母 逝く)

 応接室に通されるまで、ダイニングが目に入らないよう廊下の壁にピッタリ貼り付いて待つ時間は本当に地獄だった。


 叔母が母に話しかけている。

「お義姉さん、わたし〇〇。わかる?」
 「わからん!」

と大きくハッキリした口調の母の声。


 なおも叔母が二言三言話しかけている。
 そして、(母の傍に来るかと)私を手招きした。


 私は激しくかぶりを振った。
 早くこの状況から逃れたい。
 ただただそれ一心だった。

 

 応接室では私たちの向い側のソファーにケアマネージャーと施設長が、隣には用意された簡易な椅子に行政書士が座った。

 一通りの挨拶と自己紹介が終わり、私はケアマネージャーからの言葉を待った。

 だが、意に反して、特に知らせるべきことは無い様子。

(ああ、このケアマネージャーは母に面会できるうちに、私に面会させたかったのだ)と思った。

 訪問を決めてからも逡巡し続けた日々を考えると

(なんて、ありがた迷惑な事をしてくれたんだ)

一瞬怒りさえ覚えたが、この厚意を純粋に受け取ることにした。

 本来の訪問の目的は皆へ感謝の気持を伝えることだった。

 私は行政書士から母の近況とこれまでのことを同情と共感を込めて聞いた。

 そして、とうとう堪らなくなって母とのことを語り出したのだった。

 がんを患ってから、両親のことを話すことに抵抗が無くなっていたこともあったが、やはり皆に聞いて貰いたかった。

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 「鬼滅の刃の鬼にも鬼になる理由があるように、私が鬼(母を見放す)になったのにも、こうした理由があったのです・・・」

 皆、頷きながら黙って聞いていた。

 そこには、私への批判は無く同情と理解があった。

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 帰り際、ケアマネージャーから

「本当に今日はよく来てくださいました」と逆にお礼を言ってもらった。

 

二階の部屋に戻るため廊下に出た車椅子の母の後ろ姿が目に入った。

それは、おかっぱの髪で紫がかったピンクのポロシャツを着ていた。

認知症であっても相変わらず紫が好きなんだぁ)

母に話しかける最後のチャンスだと思った。

「・・・」

情けないことに、やっぱりここでも勇気が出なかった。

{133}最終章 おひとりさま(4-1.母 逝く)

 義理の叔母からの着信履歴があった。
 普段から特に用事が無ければ電話をかけてこない事を考えると嫌な予感がした。
 再度、叔母からの電話があり予感は的中した。

 「いっちゃん。
 行政書士(母の後見人)から電話があって、

『ケアマネージャーが娘さんに会いたい』って言うてるって・・・。
 あんた、どうする?」

想定外のことに面食らってしまった。

「・・・。 
ちょっと考えてからでもええ。
また電話するわ」
と言って電話を切った。

 叔母からの助言で、『家族が中途半端に関わる事はサポートする側にとってもやり難いから、任せた以上は口出しなどせず全面的にお願いすればいい』というスタンスでいたので、まさかのケアマネージャーからの申し出だった。

(一度きちんと会ってお礼を言いたいし、これまでの母との事も話しておきたい)

と思った。

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 叔母と待ち合わせた駅に行政書士が車で迎えに来てくれた。
 私は男性ということしか知らなかったので(若いが面倒見が良くて、やさしそうな人だな)という第一印象だった。

 着いたデイサービス施設は住宅街にある二階建ての家だった。

 案内されて廊下を進むとダイニングが見えてきて、少し早めの夕飯が始まっていた。

 (居てる!)

 瞬時に体が硬直した。

 ここに来るにあたって母に会う事が一番怖かった。
 会った時とその後の自分が罪悪感を持たずにいられるかに全く自信がなかった。
 (会うかどうかはその時任せ)と思って来たもののやはり勇気がなかった。

 

{132}最終章 おひとりさま(3-3.大叔母)

 大叔母は終活にも余念がなかった。

 訪ねる度に部屋にあった作品が減っていき『ほとんどを他人に譲った』と言って、お気に入りが一つ二つ残っているだけ。

 後に知るのだが、大叔母はガンを患っていたのだった。

 そして、『細かい手作業が以前のように出来ない』と言いつつ、

『でもこれが自分の使命と思っている』と言って

ボランティアで頼まれたバザーで販売するカードケースや小銭入れを最期まで作り続けた。

 私も分けてもらったがどれも丁寧な作りで見事なものばかり。私には絶対に作れないクオリティであった。

 大叔母がホスピス病棟に入院したので叔父夫婦と見舞いに行った。

 病棟でのクリスマス会の写真や甥の子と孫の写真がベッドサイトに飾られていたと思う。

『ここでの最長入院記録をつくる』と言っていた通り、記録をつくって亡くなった。

八十九歳だった。

 

 葬儀はかつて同居し、看取った二人の甥とその家族、叔父夫婦、母の妹二人と私。

マンションの隣人、行きつけの喫茶店の常連客仲間、ずっと担当してもらったヘルパーなど親族以外に多くの人々が参列した。

また、『故人が喜ぶから』と言ってあのカードケースが弔問客に配られた。

 四十九日の法要に行った叔父夫婦と私に喪主である甥(兄)より『大叔母が公正証書遺言で母たち四兄弟姉妹にお金を残していて渡したい』と言われた。

それは(母の分は私に渡すように)という内容でもあった。

 固辞する私たちに甥から『故人の遺志だから受け取ってもらわないと困る』と強く言われたこともあり、有難く頂戴したのだった。

 帰り道、叔父夫婦に私は

『このお金は、(大)叔母ちゃんから私への(母の最期をお願いねって)気持ちだと思う。だから、それまで預かって置くことにする』と言って決心した出来事だった。 

 

{131}最終章 おひとりさま(3-2.大叔母)

 大叔母は冠婚葬祭などの付き合いを大事にしていた。

 震災時、銭湯帰りに何度か立ち寄らせてもらったことがあった。

 母の性格上、甘やかしては図に乗ると判断してか絶対に泊まらせてはくれなかったが、『避難所の皆と分けなさい』言って箱買いしたインスタント食品をいくつも私達に持ち帰らせるという優しさと心配りができる人だった。

 そんな大叔母のことを母は「叔母ちゃんはああいう人やから、絶対に泊めてくれへん」と文句を言っては私を失望させた。

 また、三回り違いの同じ干支である大叔母と私を比べては『あんたはほんまに(気が強いところが)叔母ちゃんそっくりや』と事あるごとに言ったのだった。

 そういった影響からか、私は(大叔母の生き様を将来の自分の目標(手本)にしたい)と思うようになったのかもしれない。

 本当に大叔母は気丈な人だった。

 いつだったか、大叔母が一時期【要介護5】であったと聞いたことがあった。

腰骨の骨折で寝たきり状態になったことが原因だったのだが、そこから不屈の精神でリハビリを続け要介護状態から【要支援2】までに回復したのであった。

「(大)叔母ちゃん凄い!凄すぎる!」と私は当時信じられない思いだった。

 ガンを患って以降、義理の叔母と年に1回は大叔母を訪ねるようになっていた。

 それは、私にとって母への愚痴を受け止め、わかってもらえることができる本当にありがたい時間になった。

 『私はあんたらの話を聞くぐらいしか何もできへんけど、いつでも来てや』と言って、何度も同じ話を聞いてくれたのだった

 両親の離婚を知った当初は『なんで、そうなるまでほっといたのか』と責められたことがあった。

 私は『できるだけのことをしたけどあかんかった』と言っただけで、詳しく話せていなかったことを知ってもらえたことも良かった。

『そんな、酷いことになってたんか!』

『悪いこと言うたなぁ』

と誤ってくれたのが逆に申し訳なく思ったのだった。

{130}最終章 おひとりさま(3-1.大叔母)

 私のおひとりさまとしての目標は大叔母(母の叔母)である。

 彼女は昭和ひとケタ生まれで青春時代を(第二次世界大戦の)戦中・戦後で過ごした。

 乳飲み子であった母と暮らしたこともあり、母を叱責し意見できる唯一の存在であった。

 兄弟の末っ子で一人娘のため父親(母の祖父)がずっと傍において一緒に暮らしていた。

 父親が他界してからは寡婦である義理の姉とその息子達(母の従兄弟)と暮らし、四十代で分譲マンションを購入して一人暮らしを始めた。

 独立はしたが、さほど遠くない距離ということもあり義理の姉家族を気遣ってよく会っていたようだった。

 また、手先が器用であった大叔母は長年勤めた造幣局を早期退職して造花作り(ペーパーフラワー)の先生になった。

 この、決断を後押ししたのは既に成人となっていた甥(弟)の『元気なうちにやりたいことをした方が良い』という言葉だったと大叔母は話してくれた。

そして、造幣局の上司が『定年退職まであと少しなのだから辞めるな』という言葉に迷うことなく退職した。

 母と大叔母のマンションに何度か遊びにいった際、本物と見まがうばかりの作品が所狭しと飾られている部屋は圧巻としかいいようがなかった。

 私もリボンを使ってポーチなどの小物作りをいろいろ教えてもらった。

 中でも石鹸にピンを刺しリボンで巻いて花籠や白鳥を作ったものは専門学校の卒業時にお世話になった先生方や友人にプレゼントして大好評だった。

 震災の時に心配をかけた奈良の友人が『今も家に飾ってあるよ』と卒業して15年経った頃に言われたのには感動してしまった。

 製作者の私はさっさとリボンを解いて石鹸として使って跡形もなくなってしまっているというのに・・・。

{129}最終章 おひとりさま(2-12.父 逝く)

 パートを始めたのはファイナンシャルプランナーとして独立するにあたって、当座の生活費を得ることと興味のある職種だったからだ。

 フルタイムと違って融通が利き、セミナーの参加など勉強の時間も確保できるはずであった。
 しかし、実際は担当する顧問先が決められ、毎月申請業務の期限に追われるものだった。
 私はずっと働いてきたが、しばらく仕事をしていなかった主婦の人たちは本当に大変そうだった。

 しかも、業務内容によっては専門的な知識が必要なものもあり(従前の職場とは逆の意味で、失礼ながらパートのする仕事じゃないな)と思っていた。

 私の場合、様々な仕事を経験したことがここで活かされて、多少困っても上手く対応できた。

 仕事の続かなかったことに悩んだ日々を思うと皮肉なものである。

 あらためて勤めていた大手企業では非正規社員でも福利厚生制度に加入できるなど、それなりに恵まれていたと思った。

 その反面、在職中はどうしても正規社員といろいろ比べてしまうし、長く勤めるほど格差は広がっていったことも事実であった。

 パート勤めを父に知られると『家に帰って来い』と言われかねない。

 だから、最後まで黙っていた。

 父の事故を振り返ってみて、このパート期間は必然だったのではないかと思う。

 最寄りのバス停留所は父が入院していた病院前。

 父が利用していたデイサービスセンターと葬儀会場がバスの運行ルート上にあって、否が応でも毎日の行き帰りに父を思い出させる。

 段々と通勤が辛くなって、数ヶ月後に辞めた。

 同時にファイナンシャルプランナーとして独立することも中断したのだった。

{128}最終章 おひとりさま(2-11.父 逝く)

 四十九日に納骨をした。

 霊園には私、父方母方双方の叔父、通夜葬儀で世話になった寺の住職が送迎バスで向かった。現地では墓購入からずっと担当してくれている〇〇さんが万事滞りなく納骨式を行ってくれた。

 墓を作った当初、

『お父さん、これで(眠る場所がある)安心できたね』と冗談めかしに言ったら、

『うん、そうやな』と返事してくれたことがあった。

 (男同士仲良くやってね。トミちゃんお父さん頼んだよ)と祈るばかりだった。

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 夜、父の誕生日の7月とクリスマスの年二回訪れていたステーキハウスで一人食事をした。

 奇しくも12月23日クリスマスイブの前日。

 父がカウンター席は嫌だと言って、テーブル席でいつも向かい合って食事をした。

 今日は父の写真と向かい合う。

 夫婦二人で切り盛りしている店は父のお気に入りであった。

 200gのステーキを平らげ、普段は発砲酒とあってビールグラスを何杯もお代わりしては『ご飯が食べられへんから』と言う私との毎度の攻防戦が繰り広げられた。

 酔うと饒舌になる父は言いたい放題で、

『そんなんよそで言うたらあかんで』と私に諫めらては

『わかっとる』と更に続けた。

 この様子を店の主人と女主人が笑って聞いていて、時々女主人が話題を変えてくれることもしばしばだった。

 いつだったか、父がぽろっと言った

『わしが生きてて一番よかったことはおまえが産まれてくれたことや』

 一方の私は『何を突然に』と戸惑い素直に喜べなかった。

 今となっては私への父からの最期の言葉になった。 

 父を偲ぶことができた良い時間だった。

(お父さん、お疲れ様でした。 そして、ありがとうございました)

 

{127}最終章 おひとりさま(2-10.父 逝く)

 団地に住むことで誰かしら近所の人と話ができた。

 事故の後片づけでお世話になった人にあらためてお礼を言い、父が亡くなった事を伝えた。

 また、事故の様子も詳しく聞けた。

 階段の一段目からの転倒であり、向いの棟からよく見えたため発見が早かったということであった。

 私は(外出先や部屋の中でなかったこと。僅かな段差であっても起こり得ることだった)と自分自身に納得させたのだった。

 

 通夜、葬儀に連絡が着かなかったケアマネージャーが線香をあげに来てくれた。

 以前、私の思いが父に伝わらないことで相談した時、

『できないことを父が自分で認めることは逆に気力を無くすことにつながる』と言われたことがあった。

 保険会社の担当者も手続きの説明に来た。

 こうして慌ただしく日々は過ぎて行った。

 

 ほぼ片づけが終わり、父の遺品はアルバムと愛用の茶碗と湯呑、少しの道具だけだった。

 後は業者に大きな家財道具の処分と原状回復作業を任せるだけにして、私の部屋に仏壇の準備が出来たタイミングで実家を後にした。

 不思議ではあるが、仏壇があることで変えって部屋が明るくなったと感じた。

 ようやく仏壇に遺骨を安置できた。 

{126}最終章 おひとりさま(2-9.父 逝く)

 葬儀後、一週間の休みを取っていたこともあって、私は悲しみはから逃れるように動き回った。

 寺に葬儀のお礼を持って行き、住職から戒名の意味について長話を聞く。

 仏具店に寄り、私の部屋に置くにあたって新調する予定の仏壇と弟と父の位牌を注文する。
 ここでも、私は拘った。

 明らかに仏壇とわかる黒は嫌だったので、メープル材の家具調を選んだ。

 弟の位牌は塗が剥げていたので父のものと揃いにしたかった。花入れなどの道具類は色の違いを試しては比べた。

 霊園には納骨に際し、墓石に新たに戒名を彫ってもらうことを依頼。納骨の日程、供物などを相談した。

 

 また、新仏の供養もあり納骨の日まで実家で生活した。

 同時に父の遺品整理も始めた。

 団地の明け渡しは『四十九日を過ぎてからで大丈夫』と言われたが直ぐに取りかかった。

 ゴミの収集日に合わせて不用品を選別して出す。

 物が少ないとはいえ、人が暮らしていく上で必要な物は想像以上の数あった。

 何よりも大切にしていた道具は父が既にほとんどを処分していた。

 生前、父に仕事への未練を完全に断ち切らせるためと、後々処分を任されることを想定して『お父さん、もう使わん道具どうするの?こんな重たい物、私一人になったらよう捨てんで』と言った。

 数日後実家へ行くと、父が『いっちゃん、見てみい。全部捨てたんや!』と言って、空っぽの押入れを私に見せた。

『わしな団地の〇〇さんにパソコンで引き取ってくれるところ教えてもろて、ほんで電話してすぐに取りに来てもろたんや。お金も少しあったでぇ。ええ小遣いになったわ』とスッキリした表情で話してくれたのだった

 おかけで私には金槌、バール、巻き尺、インパクトドライバーを残し、他は小さな道具箱一つに収めてお世話になった工務店に自転車で運んだ。

 未使用の入浴用の椅子もお世話になったデイサービスセンターへ自転車で持って行った。

 他にもやらなければならないことに、父の保険金請求と預金解約。各種公共料金の解約など枚挙にいとまがなかった。

{125}最終章 おひとりさま(2-8.父 逝く)

 葬儀にあたって、田舎から伯父夫婦、叔母夫婦、従兄弟が来てくれた。
 八十一歳の父の兄妹は当然ながら高齢であり、遠方から来てくれたことにさぞかし父も嬉しかっただろう。
 他には父方の叔父夫婦、母方の叔父夫婦と田舎から叔母も来てくれた。
 この叔母のありがたい弔問は予定外だった。

 料理が足りず喪主である私はスタッフ用を分けて貰うことになった。

 皆と違うことに『アレルギーで食べられない物があるから』と言い訳までしてのアクシデントだった。
 父の仕事関係者と私の友人たちがそれぞれに供花を贈ってくれたので、"お爺さん"の葬儀でありながら華やかな祭壇になった。

 出棺時はその花々で棺がいっぱいであった。

 

 二度目の霊柩車の助手席に乗った。

 私は運転手に九歳の時に弟の葬儀の喪主として乗ったことを話した。
 運転手は『30年以上仕事をしているがそんな経験はない』と言った。

 葬儀社の人も『僕が(当時の)担当者なら全力で(霊柩車に一人乗せることを)阻止する』と言った。

 今更だが(九歳の私の体験はやはり有り得ないことだった)と思った。

 

 火葬場に着いた。

 当時とは多少様変わりしていたとしても、

(ここで待っていることが怖かったんだなぁ)と親族の到着を待ちながら、

また思い出にふける。

 

 お骨拾いも弟の時とは違った。

 皆で係の人の説明を聞きながら、順々に骨を拾い壺に収めた。

 何より骨壺が重かった。

 

 司会者との打ち合わせでは最後の挨拶はしないと言っていたが

「本日はご会葬いただきありがとうございました。

父は子離れのできないどうしようもないところがありました。

でも、職人として仕事に対する姿勢には心から尊敬しています。

私がこれからも泣かずに楽しく日々過ごしていくことが、父への何よりの供養になると思います。

本当にありがとうございました」と言いながら声が詰まり涙が零れたのだった。

 

 実家で仏壇横に父の遺骨を置き、帰宅した。

 

 こうして、父が救急で運ばれてからの目まぐるしかった二週間が終わった。

 

 

{124}最終章 おひとりさま(2-7.父 逝く)

 葬儀が終わるまで、遺族が悲しみに浸っている暇はない。
  
 朝から葬儀社の人と通夜、葬儀について一連の説明を聞きながら様々な事を決めていく。
 実は、(父がもう駄目だ)と諦めていた私は事前に見学して、概要を聞いていたのだった。
 いつもながら、最悪の場合を想定して準備してしまう自分の行動パターンがここでも役立った。

 僧侶、親族、父の仕事関係者と知人、私の友人に連絡。

 僧侶が来て読経。
(僧侶より枕経は臨終後すぐであり、真夜中だろうと連絡すべきであったことを指摘された)
 故人について(戒名を考えるにあたってか)聴かれたことを話す。

こうして、午前は過ぎて行った。

 

 そして、【湯灌】が行われ、当然私一人で立ち会った。
 
 男女二名の担当者が遺体を洗い清めていく過程を見つめていた私は
担当者から『お手伝いしていただけますか』と言われるがまま手伝った。

 今なお残る打撲の青痣はファンデーションで隠し、ずっと開いたままで硬直してしまった口をできるだけ閉ざすよう苦心してもらった。

 持参していた新品の下着と肌着。愛用のよそ行きを着せて死出の身支度が終わった。

 彼らの遺体への細やかな配慮と流れるような手順に感謝するだけでなく、

感動した人生初の貴重な体験であった。

 

 その後は一日一組の家族葬を行う葬祭場の祭壇が整えられていく様子を父の傍で所在なく見て過ごした。

 遺影に選んだ笑顔の写真が中央に飾られた。

 通夜には父方、母方双方の叔父夫婦と母方の叔母とその家族、母の従姉妹といった親族。父の仕事でお世話になった人たち。私の友人たちが弔問に来てくれた。

 大工を辞める直前まで一緒に働いた弟弟子でもある〇〇さんが『この写真、僕も持ってるで』と言った。

 それもそのはずで遺影用写真は社員旅行で一緒に撮ったものだった。
 連絡が着かなかったデイサービスでお世話になった介護員の女性も弔問に来てくれた。
 見学の時にいろいろ説明してくれた人で

『家族でもなかなかできないこと(体験見学に付き添う)です』と言ってもらったことが思い出された。

 皆が駆けつけてくれたことで、思ったよりも寂しくない通夜となった。

 葬儀社の人に『今は、遺族の負担を考慮して寝ずの番で遺体に付き添わなくても良い』と教えてもらった。

 私は宿泊できるにもかかわらず『家に帰るから、叔父さんたちも帰って』と言って、父を一人残して帰宅したのだった。

 今振り返ってみて(どうして父に寂しい思いをさせたんだろう)と後悔しているが、
当時は(無事に葬儀を終わらせるために休んでおかなくては)との一心だった。