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私がFP(ファイナンシャルプランナー)になった理由

{108}第9章 自分の人生(3-1.気がかり)

 父の自立に向けての第一歩は経済状況を知ってもらうことからだった。

 毎月の支出額だけでなく、生活費・公共料金・貯蓄用に分けている口座の種類と残高。
 いざという時のために私が加入している生命保険とがん保険

 それぞれの通帳と証券、印鑑の保管場所の説明をしなければ始まらない。
 
『まだ、いい』と言って父は取り合わない。

『田舎の伯父さんからも知ってなあかんって言われたやん』と私。

『おまえがわかってたら、それでええ』

厄介ごとを避けるのは相変わらずであった。

 それでも、自分で毎月の生活費をATMで引き出せるようにならなければ駄目なことを説得できた。

 だがこれが一筋縄ではいかなかった。

 (徐々に画面と操作に慣れていけば大丈夫だろう)と思っていた

私の考えが甘かった。

 想像以上に父の機械音痴は重症だった。

 毎月初めに近くのATMに二人で行き、私のナビゲートに従って操作するだけなのに、
父はここでも気が急いて私の指示を待たずに勝手に画面をタッチしては手順を無茶苦茶にした。
 暗証番号にいたっては間違いが2回までと知り、緊張のあまり指が震える始末だった。


 私も最初は
『焦らんとゆっくりでええから』

『落ち着いてやればできるから』と言っていたが、

 混んできたり、父の出来なさ加減に

『何度言うたらわかるの!』

『ちゃんと聞いて!』

と声を荒げては周囲の人から(年寄りをいじめている)と思われ、

何度もばつの悪い思いをしていた。

 父が可哀想でもあり正直私も疲れたので、最終的にATMは諦めることになった

 生活費の引き出しは私が必要事項を記入、押印した銀行の出金伝票と通帳を父に渡し、銀行の窓口へは父一人で行かせることになった。

 ほっとした様子の父の姿に
(父なりに嫌だと言えず、頑張っていたのだ)と思って反省した私だった。

 歩行が更に難しくなってからは、私が生活費を毎月持参することになった。

 

{107}第9章 自分の人生(2-5.一人暮らし)

 その後、梅木先生を訪れることがないまま今日を過ごしている。


 私がカウンセリングを受けた期間を振り返って思うことは、

人生とは本当に予測できないことの連続であり、

自分でも(こんな事があっていいものか)と、

人知を超えた何かしらを感じずにはいられない経験をした。


【禍福は糾える縄の如し】
本当に、昔の賢人は良く言ったものである。

 

「このまま減り続けたら無菌室に入らなければならなくなる」


こう主治医から、本気か冗談かわからないことを言われた私の白血球数は、

薬の服用を止めたにも関わらず正常値に戻ることはないままであった。


 しかし、私の免疫力は私の言った通り自力で頑張っていた。


 こうして、解き放たれた私の心と体は、みるみるうちに元気を取り戻していったのだった。


 父との関係も、別居した当初は些細な事で呼びつけられていたが、それも時が経つほどに回数が減っていった。


また、私は自分の部屋の合鍵を父に渡すことをしなかった。


 ある時、父に
『私と住んでいた頃はどうだった?』と訊いたことがあり、

『おまえが居れば便利だった』と正直に言われたのには、

『やっぱりね』

と呆れはしたが、不思議と腹は立たなくなっていた


義理の叔母が言った
「一人で暮らさなければ私は死んでしまう」
「自分が幸せでなければ父に優しくなれない」

私はこうして実感していった
 

{106}第9章 自分の人生(2-4.一人暮らし)

ここまで言った私は、思い切って先生に持論をぶつけてみた

 

「先生、私、間違っているかもしれませんがこう思うんです。
人はそれぞれ幸せと不幸せの器を持っていて、

その器の大きさや材質は様々なんです。


 私の場合、幸せの器は小さくて僅かなことですぐに一杯になるんですが、

不幸せの器は大きくて素材も強いのでなかなか一杯にはならない上に壊れないんです。

 それに比べて母の場合は、幸せの器が大きすぎて私と同量では全然足らないのです。そして逆に、不幸せの器は小さく繊細で、ちょっとのことですぐに一杯になってしまう・・・」


私の言葉はもう止まらなかった。


「何よりも母と違うのは、私は不幸せの器から溢れ出た分を幸せの器に移し替えることができたことだと思います。

そう考えることで、母のことを少しは理解できるような気持ちになれるんです」


これが、私の考えられる母に対する精一杯の結論付けだった。


「・・・・・。 間違っているかどうかは別として、

あなたのその考えは良いと思いますよ」

と言って、先生は私の考えを否定しないでくれた。

 

「私、改めて自分が今こうしていられるのは、

いろんな事があったからなのだと思い至りました。

そして、自分の未熟なところを受け入れて、これからを生きていこうと思います。

だって、それが私なのですから・・・


「そうよ。高野さん、あなたはそのままで良いんですよ」


「先生。私、ダイアモンドの心を持ちたいんです」


(我ながら突拍子もない言葉を言ってしまった)と思った。


「・・・・・」


困惑する先生を見て、私は
「誰にも傷つけられない、磨くほどに輝くような心を・・・」
と、大真面目に言った。


(今、思い返してみて、穴があったら入りたいほど恥ずかしい


「それは凄いですね」
 梅木先生は私のどんな考えも受け止めてくれた。

 

{105}第9章 自分の人生(2-3.一人暮らし)

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 「先生、その後の薬の服用についてですが、副作用のためか検査の度に白血球が減り続けていて、主治医がこの状態を『気持ち悪い』と言って

服用を中止することになりました」


「これは、私の白血球が『薬の助けがなくても自力で頑張れる!』と言って

抵抗しているのだと思います」


こんな私の無茶苦茶な解釈にも、


「そうね。あなたの言う通りだと思いますよ」と、
先生は賛同してくれたのだった。


これに気を良くした私は、思いつくままに話していた。


「私、以前義理の叔母から『あんたようグレんと育ったなぁ』と言われたことがあって、それは私が親から愛されて育てられたからだと思ったんです。

記憶になくても、赤ん坊の頃は大事にされていたと・・・」


先生は頷きながら、
「皆、そのことに気付いていないのですよ」と言った。

私はなおも続けて、
「父の愛情は私を手放さないで傍に置くことであり、

母は自分の虚栄心を満たしてくれる者しか求めていなかったということです。

残念ながら、どちらも私の望んだ愛情ではありませんでした。

私は突き放して欲しかった。

そして、どんな私であっても見捨てず、

最後は味方でいてくれると思えるだけで充分だったのに・・・」

 

 

{104}第9章 自分の人生(2-2.一人暮らし)

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 「高野さん、普通なら当たり前に一人暮らしができるのに、

あなたは本当に時間がかかりましたね」と先生は言った。


 「はい。おかげで準備期間が長かった分、一人になっても困ることは何もありませんよ」と、

私は明るく笑顔で答えた。

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 私が一人暮らしをすることを決めたのは、もちろん自分の夢を叶えたかったことが一番にあった。
そしてもう一つの理由は、今後もし癌が再発した場合を考え、

(父には自立した暮らしができるようになっていてもらいたい)という思いもあった。


 今さら、高齢の父親を一人にして独立することに疑問視する友人もいたが、

(これからは自分の気持に正直に生きることに罪悪感を持たない)と決めた私に迷いはなかった。

ただ、友人に理解してもらえないことが正直悲しかった。


『自分の人生を生きていなかった』と言われた私であったが、

死に直面したことでようやく行動することができたのだった。


それは、人生100年の半分近くが終わり後半戦に入る四十五歳のことであった。

{103}第9章 自分の人生(2-1.一人暮らし)

 私はこれまで、母の脳梗塞、両親の離婚、阪神淡路大震災と一人暮らしをするチャンスを逃していました。

だから、今回が最後のチャンスだと思い、絶対に逃すまいと固く決心したのです。


 私はすぐに行動を開始しました。


 まず、叔母に会った三日後に振替休日を取って部屋探しです。

ここでもラッキーなことに、すぐにほぼ理想通りの部屋が見つかりました。

そして仮契約を済ませた私はその夜、叔母に報告と保証人を頼むために電話をしたのです。
 ちょうどお盆と夏休みが重なった日に、私は念願の一人暮らしを始めました。

それは退院から二カ月経たない暑い頃でした。


 叔母夫婦は引っ越しの日も手伝いに来てくれました。

電化製品やラック類は直接販売店から配達されることになっていて、自宅で使っている寝具と20型の液晶テレビを叔父の自家用車で運んでもらう以外は、すでに自転車で少しずつ身の回り品を運び終えていました。


 私の新居は自宅から自転車で十分もかからない距離のところでした。


 叔母は私に『自分ならもっと遠くに部屋を借りる』と言い、

『実家の近くに住むことが父に対しての私の優しさだ』とも言いました。


 私は職場や病院から近い現在の生活圏をただ変えたくなかったことと、

父を説得するにあたり『近くで何かあればすぐに来られて、二、三年後には戻ってまた一緒に住む』と言っていたのでした。

だから、必要最低限の荷物を持っての引っ越しだったのです。

 私の早すぎる行動に不意を衝かれた父は、不安と寂しさを自分なりにどうにか折り合いをつけようと、私の代わりに自転車で何度も往復をしては私の荷物を運んでいたのでした。


 叔母は『私が一人暮らしをできるのも、父のこうした助けがあったことに感謝しなければならない』と言いました。


 また、『自分が幸せでなければ父に対しても優しくできない』

と諭してもくれたのです。


 私は叔母のこの言葉を忘れることなく、

(今後何があっても悔いのない生き方をしよう)

と心に決めた一人暮らしのスタートでした。

{102}第9章 自分の人生(1-4.第三の決心)

 夜の十時を過ぎていたと思います。


 神戸の叔父夫婦が私に会いに来てくれました。
 「いっちゃん、今お父さんの所で話して来たから、あんた一人で暮らしたらいいわ


義理の叔母からのにわかに信じ難い言葉でした


 「えっ、どういうこと?」

と、訳のわからない私です。


さらに叔母のビックリな言葉は続きます。


「私らが保証人になるから、部屋を借りたらいいわ」


私は何も言えず、ただただ叔母の次の言葉を待ちました。


「私、あんたのお父さんに言うたんよ。このままだと、いっちゃんが死ぬって!


「・・・・・」


「死なせたくなかったら、一人暮らしさせたらなあかんって!」


「・・・・・」


「あんたのお父さん『わしさえ、辛抱したらええんやな』と勝手なこと言うてたけど、そういうことやからあんた一人で暮らしなさい」

青天の霹靂でした!

 その後、叔母は父との会話についていろいろ話していましたが、

残念ながら私の記憶には全く残っていません。

ただ、父を説得するには相当、骨が折れたようでした最後には叔母の迫力に負けたのだと知りました。


この事態の急展開には、叔母の素早い行動なくしては絶対にあり得ませんでした。


私は感謝の気持を十分に伝えられないことをもどかしく思いながら、


「ありがとうございました」


と何度も何度も繰り返し、叔父夫婦に頭を下げるより術を知りませんでした。

{101}第9章 自分の人生(1-3.第三の決心)

梅木先生はもう呆れたといった様子で、溜息をついた。


「先生、父を殺すつもりなら、もうとっくに殺していますよ」

「なぜ、殺さなかったのかといえば、殺しても私が損するだけで何の価値もないことがわかっていたからです」
と言って、私は苦笑いをした。


 「ほんとにそうね」
と、先生も私の考えに同感してくれたのだった。

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 これ以上、父と話しても無駄なので、私は『寝る』と言って話しを打ち切りました。


 寝ると言ったものの、私は腹が立って眠れません。

(父にわからせるためには実力行使しかない)と考え、

早速実行するべくインターネットでホテルを予約したのです。


 翌日の午後三時過ぎ、父が銭湯に行っている間に置手紙をして、

私はプチ家出をしました。


 ホテルの部屋から父方の田舎の伯父と母方の神戸の叔父に電話をして、

私は事情を話したうえで『味方になって欲しい』と頼んだのでした。


 神戸の義理の叔母は、『夜に会いに行くから待っているように』と言いました。


 そこまでのことを期待していなかった私には叔母の意図がわかりませんでした。

{100}第9章 自分の人生(1-2.第三の決心)

 私が退院したことを職場の同僚や同級生達が喜んで、私のために食事会を開き誘ってくれました。


 書店時代の年長の同僚が職場復帰に際して

『どんなことがあっても休まずに出勤し続けないといけない』と言って

へたれの私を励ましていました。


ですから私なりに絶対無理はせず、人々の好意に感謝して誘いを受けていました。


ある日、翌日が休みとあって私は少し羽目を外して帰宅が遅くなってしまいました。

父が鬼の形相で待ち構えていました。


「何時やと思ってるんや!」


「明日、休みやから別にいいやん」


「いつもやないか!」


「皆がせっかく誘ってくれるのに断られへん」

「それに、ちゃんと自分でしてるから大丈夫やて」


「ええ加減にせえ!」


私は楽しかった気分を父に害されたこともあり、頭にきて、

「お父さん、私が入院している時に伯母さんとトモから『好きにさせてやって』と言われたんと違うん!」

 

「そんなん関係ない!」


「私のすることがそんなに気に入らんのやったら、出て行って一人で暮らす!」


こうして、私はやっと本音が言えたのでした。


「私が居らんほうが、お父さんかてイライラせんで済むやんか」


「出て行くなら、わしを殺してから出て行ってくれ!」


「・・・・・」


呆れ果てて言葉も出ないとは、このことです。


父が私を心配する余りの言い様とは到底思えませんでした。


やっぱり、父にとって私は【保険】であり、

自分の安心のためなら、なりふり構わずしがみつく様には

反吐が出るほどの嫌悪感しかありませんでした。

 

{99}第9章 自分の人生(1-1.第三の決心)

 八月の下旬、まだまだ残暑も厳しい頃、

私は梅木先生のカウンセリングを受けていた。


 通り一遍の挨拶を終えた後
「先生、私一人暮らしを始めました!」
と、言った。


 私のこのセンセーショナルな報告に
これ以上驚きを隠せないといった表情で
「本当に凄い、精神力ですね」
と、先生は言った。


「それはもう、大変だったんですよ」
と言って、私は事のいきさつを話し始めた。

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 私の手術中に義理の叔母と看護師の友人が父と一緒に居てくれたことはお話ししました。

その時、『私が退院したらもっと自由に好きにさせてあげて欲しい』と

二人が交互に父に頼んでくれました。


父は『よくわかった』と言っていたそうです。


 しかし、二人の願はいとも簡単に父に忘れられました。


そして、私が退院してからも、父の束縛は相変わらずだったのです。

いえ、これまで以上だったかもしれません。

{98}コーヒーブレイク(第8章 病気)

週1回のホットヨガをもう20年近く続けている。

 

心身のストレス緩和のために始めたホットヨガ

体の硬い私ではあるが、【継続は力なり】でそれなりに出来るポーズも増えた。

全身汗まみれ(下着もビチョビチョ)になることを気にする必要もなく、終わったときの爽快感は超気持ちイイ。

【シャバ・アーサナ(おやすみのポーズ)】ではアロマの香りの中、プチ瞑想または寝落ちする(いびきをかいてるかも・・・)。

当初、負けず嫌いの私はポーズが出来ないことにイライラ。

上手な人を羨んでいた。

でもある時、『自分は自分!』と悟って(?)からは、ポーズの完成形が出来なくても『私はこれでいいのだ』となった。

実際、無理に完成形のポーズを取らなくても、いま体のどこに効いているかを意識し、イメージすれば出来るところまででも十分。

マンネリ化を脱出するため、インストラクター資格を目指すことにして4年が過ぎた。

朝活と言っていいのか?

毎日、朝食前に30分ヨガをするようになった。

【継続は力なり】←実はこの言葉が好きではない!

気付けば、出来なかったポーズが出来るようになっていた(驚)

 

この度、全米ヨガアライアンスRYS200資格取得しました。


取り立てホヤホヤ~

何はともあれ『よくがんばりました!』

{97}第8章 病気(4-6.復活)

 私は体の回復を素直に喜べない心情をようやく語り終えた。


 梅木先生は私の話を黙って頷きながら聞いていた。


「先生、皆は私に
『元気になって良かったね』と喜んでも、
『よくやったね』とは言ってくれませんでした」


「『頑張れ』と励ましても、
『頑張ってるね』とは言ってもらえませんでした」


「こんなにも必死で頑張っているのに、

これ以上頑張れと言われたら、

私はどうしたらいいのでしょうか」


 私は止まらない涙をハンカチで拭いながら、誰にも言えなかった辛い心の内を吐き出した。


先生は唐突に
「高野さん、本を書きなさい」
と言った。


先生のまたしても予期せぬ言葉に、私はどう答えたものかと戸惑った。


「本ですか?」


「そう」

「本を書いたらいいわ」


 私は、なぜいま本なのか正直なところ分からなかった。


 そして何も言えず、ただポカンとしていた。


 しかし、後で先生の意図することをこう理解した。

今までに起こった出来事を整理して、もう一度振り返ることだと。


私は気を取り直して、
「私はまだ死ねません」

「だって親より先に死ぬのは、何よりもの親不孝ですから・・・」
と言った。


「高野さん、まだそんなことを言うのですか」


 先生の今までにない強い口調に、私はびっくりした。


 今思えば、先生にはわかってしまったからだった。

 私が自分の人生を生きることを無意識のうちに諦めていることを・・・。


 でも肝心の私には、まだわかっていなかった。


 この頃の私は、自分が生かされたことをあらためて考えてみることがなかった。

 『治療に前向きになる』と言って帰ろうとする私に、


「よく、頑張りましたね」
と、先生が言った。


 「・・・有難うございました」
と言って、頭を下げた私の目には涙がにじんでいた。

 

{96}第8章 病気(4-5.復活)

 一カ月半ぶりの出勤は緊張の中、同僚の驚きと安堵の表情で迎えられました。


 職場の業務上、私の病名は周知の事実でしたが、皆変わり果てた姿の私にどう言葉をかけていいものかと躊躇していたことを覚えています。


 私の方は、上司に挨拶をしている最中に感極まって泣き出してしまいました。


(ここまで、やっと戻ってこられた)
という安心感から出た涙でした。


 どんな所でも、戻れる場所があるというのは幸せなことなのだと、私はこの時までわかっていなかったと知りました。

 抗がん剤治療を決めたものの、私はやはり積極的になれないでいました。


 自分は生かされているんだと感謝しつつも、

それに応えることを拒否する自分がいることが申し訳なくてならなかったのです。


 私のこんな気持ちと裏腹に体は賢明に生きようとしているというのに。


(辛い)
 心が体に付いていけないのです。


(苦しい)
 私は、本当は死にたかったのだと思いました。


 両親に『許さない』と言えたことで、もう思い残すことは何もありませんでした。


 満足した私は、本当の意味で楽になりたかったのです。


なぜなら、私は再び父の【保険】としての変わらぬ現実が待っていることがわかっていたからです。

{95}第8章 病気(4-4.復活)

 今後の治療は抗がん剤の服用をどうするかということになりました。


 私の場合、転移は無くても再発リスクが高いので、

当然のことながら、父は『抗がん剤を飲むよう』私に強く言いました。


 医師からは

抗がん剤を飲んだからといって、必ずしも効果が期待できるものではない』と、

またもや身も蓋もない言い方をされました。


 その上で、三種類の薬剤の作用の強さと服用回数の説明が行われ、

私は選択を迫られることになったのです。


 私は抗がん剤の副作用を考えると極力飲みたくなかったのです。


 しかし、薬さえ飲べば治ると思い込んでいる父に言ったところで、

私の考えを理解してもらえるとは到底思えないでいました。


 私は正直なところ疲れ切っていました。


 退院までの日々は、私を支え応援してくれる人達の気持に少しでも応えようと、

本当に必死で頑張っていたのです。


 なぜなら、

(私が元気になることが皆への私からの感謝の気持ち)だと思ったからです。


 昨日より今日、今日より明日と元気になっていかなければならないと思う反面、

もっともっとと追い立てられている気がしてなりませんでした


 そして、抗がん剤治療の選択が加わったのです。


私の中で、少しスピードを緩めたいと言う自分と、

まだまだ頑張れると言う自分がいました。


 私は抗がん剤治療をすることを決め、職場復帰をしました。

 

 退院から二週間たっていました。

{94}第8章 病気(4-3.復活)

 私の癌は『目に見えるものはすべて取り切った』と聞いていました。


 しかし、『浸潤していたので、恐らく転移しているだろう』と言われていました。


 担当医師が病理検査の結果が出たので話しがあると呼びに来ました。


私が『父と一緒に聞かないと・・・』と言うと、


医師は『悪い話じゃないから一人で聞けばいい』と言ったのです。


医師の言う通り悪い話しではありませんでした。


私の癌は転移していませんでした。


(奇跡だ!)
と思いました。


 医師は続けて、転移はなくても限りなくクラスⅢに近いクラスⅡbだと言い、5年生存率は80%だと私に告げたのです。


(80%かぁ・・・)
と思ったのも束の間、


『そうは言っても20%になる可能性もあるから』と医師は言い、

ここでも私を絶対に楽観的な気持ちにさせてはくれませんでした。


 私は順調に回復し、手術から二週間足らずで退院しました。

 思ったより早かったためか、職場の上司は見舞いに間に合いませんでした。


(頑張って美容院に行ったのは何だったん?)


と自分に突っ込みを入れてみた私なのでした。