{50}第6章 阪神淡路大震災 (3-2.希望を持つこと)
私はアドレス帳を探し出して、その夜近くの公衆電話から友人たちに連絡しました。
奈良在住の友人は、『役所に問い合わせて、こちらへ探しに行こうとまで考えていた』と言い。
大阪で一人暮らしの友人は、『何日でも泊まりにおいで』と言いました。
こんな風に皆が私を心配して、連絡を待っていたとは思わなかったのでした。
ある夜更けに、避難所に小学校からの友だちが訪ねて来ました。
友人の住むマンションは避難を免れたのですが、『水道が使えないので、毎日給水のために並んでいる』ということでした。
友人は『カップラーメンとインスタントやきそばのどちらを食べるか迷った時、苦労して運んだ水を捨てるのは勿体無いから、カップラーメンを食べた』という話を聞いて、私と友人は大笑いをしました。
そうやって、しばらくたわいもない話をした後、友だちは帰って行きました。
久々に友だちに会えた嬉しさと、頑張っていることに私は元気付けられました。
その反面、避難しているとはいえ、私は恵まれていると実感したのでした。
電車で大阪まで行けるようになると、私と母は洗濯物を持って銭湯通いをするようになりました。
贅沢だと思いましたが、長風呂の私と母はゆっくり湯に浸かりたかったし、コインランドリーで父の仕事着などを洗濯する必要もありました。
普段なら三十分で行ける大阪の街は別世界でした。
そして、毛糸の帽子にマスク、リックを提げている私たちの恰好は、被災地から来たとはっきり物語っていました。
(僅かな距離でこの明暗は何なの)
と正直やりきれない思いが私にはありました。