wish

私がFP(ファイナンシャルプランナー)になった理由

{20}第3章 両親 (2-2.父という人)

 そんな私の唯一の楽しみと言えば、家族で月に一度、給料日に近くの洋食店で外食することでした。

 給料が入ったことで、しばらくはお金の心配をしなくても良いという思いと、ハンバーグが食べられるという嬉しさでその時はウキウキでした。

 また、その日に限って両親も仲が良く、私にも優しかったことを覚えています。
 

 当然のことながら、両親はお金のことでよく喧嘩をしていました。

 母の浪費は本当にどうしようもなく、父にも打つ手がないといった状況でした。

 父が生活費を母に渡して残りを自分の小遣いと貯蓄にしていたのですが、当時はATMなど無く、昼間は現場での仕事があるため銀行にも行けない。家にお金を隠すという、いわゆるタンス貯金をしていたのでした。

 母はお金に困ると父に泣きつくという常套手段が通じないときは、父に無断でそのお金を遣っていました。父がどこに隠そうとも、母は必ず見つけ出していました。

 その様子を目の当たりにして、私は母の勘の良さに感心すると同時に、お金に対する母の凄まじい執着心に言葉にできない恐怖も感じていました。


 母がお金を盗んで遣っていることを、知った父の怒りは相当のものであったと思います。それでも父は、母に対して文句は言いますが、暴力を振るうことはありませんでした。

 何故なら、母はずる賢くて『いっちゃんが欲しがるから仕方ない』と事あるごとに、私を言い訳に遣っていました。そう言われると、父が何も言えなくなることがわかっていたからです。

 私は父のその優しさが、(母を図に乗らせているんだ)と子供なりに理解し、父には期待しなくなっていったのです。


 父は私のことが可愛くて仕方がないようでした。

 一人で銭湯に行けるようになるまでは、どちらかというと母よりも父と銭湯に行っていました。風呂から上がって、汗疹の薬を額、首筋、胸、背中と塗られて真っ白になっていた自分が今も目に浮かびます。
 また、遠足でお弁当を持っていかなければならない時には、必ず、ゆで卵を作っておいてくれました。空き缶で絵具の筆を洗う水入れも作ってくれ、それは私のお気に入りで中学卒業までの九年間ずっと使っていました。

 私が小学校三年生だった時、父が何かの話の折りに、叔父に
『いつこには養子を貰う』と言っていたことがあり、


それを聞いていた私は、
(何言ってんの、アパートに住んでいて財産もないのに、お父さんバカじゃないの)と思ったことをはっきり記憶しています。