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私がFP(ファイナンシャルプランナー)になった理由

{15}第2章 いっちゃん(4-4.期待)

 学校では良い友達に出会うことができ、現在でも交流が続いています。
しかし、弟のこともあり、友達と楽しく過ごしていても、心のどこかで私は(皆に嘘を付いているんだ)という思いが常にありました。
  また、できることは何でも自分でさっさと解決するといった態度が、協調性のない子供と評価されるようになっていました。自分でも集団の中で行動することに違和感を覚え、一人でいる方が気楽でした。
  そうして気が付けば、読書、少女マンガ、テレビ映画、ラジオの深夜放送に自分の居場所を見つけていました。そこでは、誰に気兼ねすることなく、思う存分に素直な感情を出し、登場人物に共感することで自分自身を勇気付けていたのです。

 中学生になると、大した人気もない私は、学級委員というと聞こえは良いが、要するに都合のよい便利屋をさせられていました。なかでも、修学旅行には忘れられない思い出があります。
 女子八人で一部屋に宿泊することになり、私のグループと別のグループが各四人ずつでした。私は別のグループの子達とは特に親しくもなかったので、Mさんについて全く予備知識ゼロでした。また、クラス委員の私は当然のことながら部屋でも班長になっていました。
 Mさんは起床が遅く、集合の際の点呼に、絶対に遅刻は許されない立場の私としては、Mさんの世話をせざるを得ませんでした。寝起きで不機嫌なMさんを急かしながら、寝具の片付けなど、手伝えることは何でもしました。
 最終日の前夜、消灯の時間を過ぎてもMさんらグループはお喋りをしていて、とうとう見回りの先生に見つかって注意されてしまいました。私も寝ずにヒソヒソ話をしていたのと、Mさんを注意できなかった責任もあり、部屋全員の連帯責任で夜中に階段の踊り場で正座をして反省するよう言われました。
何分ぐらいそうしていたでしょうか。足は痺れて痛いし、情けないし、それでも私は気丈に皆を励ましていました。
Mさんにも『皆も痛いの辛抱してるんだから、もうちょっと頑張ろうよ』と言って・・・。
すると、『あんたに言われなくても、そんなことわかってる』と吐き捨てるようにMさんから言われたのです。
その時、私の我慢もとうとう限界に達しました。


 間もなく担任の先生が部屋に戻るように言いに来たので、私は痺れて足の感覚の無いまま、悔しさを胸にすっくと立ち上がろうとした瞬間、足に激痛が走り前のめりに倒れ込んでしまったのです。動けない私を残して、皆が部屋に戻っていった後、先生と二人になりました。そして、足の痛みもあり、気が付くと私は泣き出していました。
 階段に先生と並んで座った私は、Mさんへの不満を訴えていました。先生は私の肩を軽く叩きながら、話を聴いてくれました。


私が『私はMさんのお母さんじゃない』と言うと、


先生は、『Mさんはああいう子だから仕方ない』と、答えになっていないことを言ったのでした。

最終日は惨憺たるものでした。

 前夜、泣いたので目が腫れ上がり、足も真っ赤に腫れて捻挫をしていました。朝の集合の点呼にも遅刻してしまい、係の先生にも叱られました。捻挫をしていることを誰にも言えないまま、その日の予定をこなしていたのですが、自分のことで精一杯で、いつもより注意力が散漫になっていました。
その結果、集合地点を知らずにバスに戻ってしまったのです。他にも数人いたのですが、心配して探しに来た先生に怒鳴られたのは私でした。


『髙野、おまえ学級委員のくせに何やっているんだ。』 


それから後のことはほとんど覚えていません。ただ、担任の先生がその様子を黙って見ていたことは、はっきりと覚えています。」

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そう言って、ふっと溜息を付き、私が顔を上げると、
梅木先生が目頭を押さえている姿が目に入った。

私には梅木先生が泣いているように思えた。